この記事は2013年7月31日に地域日刊紙『大衆日報』に掲載されたものです。
コラム『おいしい おしゃべり』VOL.5 2013年7月号
ポルトガル船が来た!
何分、遠い昔の事ですので書物に頼るしかありませんが、こういう事です。
1543年、種子島にポルトガル船がやって来ました。
それから日本に鉄砲が伝えられました。この事は有名です。
1549年、宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に来て、キリスト教の布教をしました。
この事も有名です。
鉄砲だけでなく、お菓子も一緒に来た!
そして今回のポイント、この時、カステラ、ボーロ、金平糖なども一緒にやってきた事をご存じでしたでしょうか?
この頃、ポルトガルやスペイン、オランダから渡来した、これらのお菓子を『南蛮菓子』といい、その後の日本のお菓子に大革命を起こすのです。
宣教師たちは、布教活動をする時に、これらのお菓子を配布しました。
南蛮菓子は今まで食べたことのないお菓子♡
今までの日本には無かった、甘くて、そして濃厚なコクのある、新食感なお菓子に人々は心をひらきました。
砂糖と卵を使ったお菓子は、今でこそお菓子作りの基本ですが、これまでの日本のお菓子といえば、甘葛煎(あまずらせん)で味付けしていましたし、卵をお菓子に使うようになったのも、南蛮菓子がきっかけです。
甘葛煎とは?
砂糖の輸入、国内生産の増大により消滅しました。
いつの時代も人は甘い物には弱いのですね。
人々は、「見た事もない、食べた事もない、美味しいお菓子をくれるよ、ザビエルさんの話を聞きに行こうよ。」と、それはそれは珍重されたのではないかと想像します。
南蛮菓子ってどんなお菓子?今もあるの?
『長崎夜話草』(ながさきやわぐさ:著者 西川如見)によりますと、「南蛮菓子色々、ハルテ、ケジアト、カステラ、花ボウル、コンペイトウ、アルヘル、カルメル、ヲベリヤス、バアリス、ヒリョウス、ヲブタウス、タマゴソウメン、ビスカウト、パン、此の外猶有ベシ」とあります。
この中で、現代に残っている南蛮菓子には、小麦粉を主原料としたカステラ、ボーロ、ビスケット、パンがあります。
また、砂糖を主原料とした金平糖、有平糖、カルメラ、鶏卵そうめん等があります。
カルメルとは、カルメラの事で、私は、前々回号で作らせて頂き、10回失敗しましたが、最後は一応、成功しました。その時の記事はこちらです
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この記事は2013年5月17日に地域日刊紙『大衆日報』に掲載されたものです。 コラム『おいしい おしゃべり』VOL.3 2013年5月号 「キャラメル」と「カラメル」と「かるめら」と「か ...
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南蛮菓子の歴史年表
室 町 時 代 |
1543 | ポルトガル人が種ヶ島に鉄砲を伝える。 | 天文12年 | |
南 蛮 菓 子 時 代 |
1549 | フランシスコ・ザビエル布教のため鹿児島に上陸する。このとき、カステラ、ボール、金平糖、有平糖、ビスカウトなどを携行してきた。 | 天文18年 | |
1555 | 茶道盛んになり、点心に羹、麺類の他に餅類の牛皮餅、葛やき餅、葛餅、わらび餅、拘把餅、五茄餅、笹餅、御所様餅、ちまきその他が茶味として用いられる。 | 弘治1年 | ||
1560年代 | 茶道の発展により、葛餅、蕨餅、笹餅、粽が生まれる。 | 永禄年間 | ||
1569 | ポルトガル人の宣教師ルイス・フロイスが京都二条城で信長にギャマンの壺入りの金米糖を贈る。(フラスコ入りという説も・・・) | 永禄12年 | ||
1571 | 信長が元旦に安土城で将に茶や南蛮菓子を振舞う。 | 元亀2年 | ||
1573 | 南蛮菓子の輸入盛んになる。主なものは、カスティラ、パン、ボーロ、金平糖、有平糖、カルメラ、ビスカウト、鶏卵素麺等。 | 天正1年 | ||
安土桃山時代 | 1578 | 秀吉が北野で大茶会を催す。このとき、練り羊羮が諸大名に披露される。 おこし、米煎餅、きんとん、羊羹、上り餅、みたらし、団子、ちまき、葛餅、わらび餅などが料理から離れる。 | 天正15年 |
金平糖にまつわるエピソード
ここで、金平糖にまつわる興味深いお話をご紹介いたします。
織田信長に献上された金平糖
宣教師ルイスさんにしてみれば、布教活動をスムースに行えるよう、信長との謁見は大変重要な意味があったでしょうし、「いったい何を贈ったら喜んで頂け、信長様の心をつかむ事ができるだろう?」と、さぞかし贈り物にも気遣いされた事と思います。
そして、数ある南蛮菓子の中から、選ばれたのは、小さくてキラキラして、その姿は、まるで宝石か、お星様のように美しい、食べると甘い、金平糖だったのです。
「お地味なカルメラよりは、やっぱ金平糖でしょ。」
そうルイスさんも思ったに違いありません。
私も、生まれて初めて金平糖を見た時は感動しましたし、プレゼントされるなら、カルメラよりも金平糖の方が嬉しいし、それこそ、ガラス製のステキな“振り出し”から、ひょひょいと魔法のように出された日には、一気に雰囲気は和み、「つかみはOK!」はい、商談成立!となるでしょう。
初めて見た未知なるお菓子が、あのカワイイ形で、甘い味がしたら、信長も感動せずにはいられなかったと思います。
その二年後の1571年の元旦には、信長が安土城で茶や南蛮菓子を振る舞っていますから、信長が金平糖を気に入ったのは言うまでもありませんね☆
なかなか製法がわからなかった金平糖
「めっちゃやったけどむず!ポルトガル人も肝心のノウハウは隠すんじゃね?」
井原西鶴の『日本永代蔵』には、「仕掛いろいろせんさくすれども成がたく」、「南蛮人もよきことは秘すと見えたり」と、金平糖作りに苦心した当時(1688年頃)のようすが描かれています。
特徴的な形状をした金平糖が国産化されるのは、渡来から、なんと、100年以上(一説では120年以上)経ってからとなりました。
金平糖の研究にずいぶんと材料を無駄にしただろうな・・・。
中には、小さな飴粒に、つまようじでイボイボの突起物を付けるという気の遠くなるような真似をした職人さんもいただろうな・・・。
100年の間には、一生かけても完成できず志半ばの職人さんもいただろうな・・・。
と、菓子職人さん達の苦悩を、いろいろ考えてしまいます。
その後、金平糖が江戸に伝わるのは1820年頃となりますが、製法が解明されるとやがては貴重品扱いはされなくなっていきます。
かつては、信長へ献上された金平糖も現代では一部の高級品をのぞき、駄菓子扱いとなってしまいました。
このように、外国からやってきた南蛮菓子を日本人は気に入り、450年以上経った今でも、カステラ、ボーロ、金平糖は残っているのです。
インターネットも電話も無い時代に、人から人へ伝えられ、すごい勢いで日本中に伝わり、鎖国の間も、南蛮菓子の流通は続きました。
一度覚えた密の味は政治でも止める事はできないのです。
入手が困難ならば、私が作る!と菓子職人達は、南蛮菓子の研究をしたでしょうし、ポルトガル人に教えてもらえるラッキーな人もいました。
私が当時に生きていたら、風呂敷を背負って弟子入りしたいと思いました。
やがて、日本人は、日本独自の素材を使ってアレンジしたり、南蛮菓子を日本のお菓子として育てて行ったのです。
いかがでしたか?今回は、南蛮菓子の歴史について簡単に説明させて頂きました。
次回は、南蛮菓子の中から『ボーロ』を作ってみたいと思います。
続く・・・